10  シトリンクォーツ(治癒)
その年の夏はとても暑い夏であった。
遊園地にはプールがあり、夏が暑いと入場人員も増え、お父さんの仕事も忙しくなる。
夏休みになると、お母さんは勿論、お兄ちゃんもアルバイトに借り出される。
7月の中頃から8月の終わりまで、休園日もなくなり50日間以上連続出勤の日が続くのである。
お父さんとお母さんは毎年夏になると、「この体力何時まで続くかねえ」と、お互いの身体を気遣いながら、気力で乗り切って来ていた。
暑さが厳しいと疲労も増すのだが、それだけお客様も増え売上にも繁栄されることで、二人は気力を更に奮い立たせ、その繁忙期を乗り切るのである。
悲しい商人の性とでも言うのか、売上に繋がる事であれば、わが身を削る事を厭わないのである。
お兄ちゃんは大学受験の年なので、例年よりはアルバイトの日数を減らしていたが、それでも土日、お盆と手伝いに出かけていた。
8月後半になると、「後何日で休園日が来る」と、それだけを楽しみに、ひたすら仕事場に向うのが通年の事になっていた。

僕とおばあちゃんは毎日お留守番で、暑い昼間はエアコンの効いたおばあちゃんの部屋で過ごす事が多くなっていた。
おばあちゃんは二人きりになると、僕に良く話し掛けて来た。
店を開けていた時は、お得意様や近所の人など、世間話の相手には不自由しなかったが、ここに引っ込んでからは近くに特に親しい人も無く、昼間の話し相手は専ら僕と言う事になっていた。
おばあちゃんはお父さんお母さんに「このひとが居てくれるお陰で、昼間の一人も寂しゅうのうて助かるわ」と、よく言っていた。
僕の表情もとても良く理解してくれる様になり、お母さん達の帰りが遅くなり、空腹を我慢していると、「リキさん、お腹空いたやろ」と、ご飯の用意をしてくれる事もあった。
そして、ドッグフードの夕飯を済ませると、晩酌のお相手をさせてくれた。
僕もおばあちゃんが居てくれる事で、寂しさも忘れる事が出来た。
おばあちゃんにとっても、僕にとってもお互いが、とても大切な存在になっていたのだ。

9月に入った最初休園日がやっとやって来た。
お父さんとお母さんの二人は疲労の極地からの脱出を、ひたすら朝寝する事に求めた。
お兄ちゃんもその辺の事情を承知していて、朝からご飯党のところをお母さんに「明日は始業式だけだから、パンと牛乳でいいから、お母さんは起きなくてもいいよ」と、寝る前に優しい言葉を掛けていた。
お母さんはリキには少し我慢してもらって、10時まで寝かせてもらおうと決め、本当に久し振りの朝寝をゆっくり楽しんでいた。
お兄ちゃんは学校へ出かける時おばあちゃんに「今日はお母さんも朝ゆっくり寝かせてもらうって言ってたよ」と、お母さんが朝起きてこなくても心配しない様に告げて行った。
おばあちゃんも「そりゃ、そうやろ、昨日まで休み無しやったさかいなあ」と、お父さんとお母さんをしっかり休ませてあげたいと思った。

何時もなら、先ずお母さんが降りて来て「リキ、おはよう」と、声を掛け、カーテンを開け朝の明るさを部屋に注ぎ込み、僕の飲み水を新しい物に替えてくれる。
お兄ちゃんの朝食を用意し学校へ送り出してから又、2階へ上がり洗濯物を干したり、掃除をしたり一通りの家事を終えてから、僕のお散歩に行ってくれるのだ。
僕はお母さんの動き回る足音に耳を澄ませ、家事の捗り具合を想像しながらお母さんを待つ。
今の僕は容易に2階へ上がる事も出来るのだが、以前上に上がってお母さんに纏わり付き、お散歩をせがんだ時、お母さんに「リキ、邪魔でしょ、お仕事が早く終わらないとお散歩に行けないよ」と、叱られ下で待つように躾られ、それ以来僕は階段の下で待つようになった。
季節の変わり目だったりで家事が多くなり、待つ時間が長くなるとお母さんが2階から顔を出し、待ち遠しそうに見上げる僕に「ゴメンネ、もう少し待ってね」と、声を掛けてくれる。
僕はお母さんの動き回る足音が聞こえる限り、「もう、降りて来てくれるぞ」と、楽しみに待った。

その日は、何時もと違ってお兄ちゃんだけが先に降りて来た。
カーテンを開け、窓とドアを開け放ち風通しを良くしていた。
9月とは言え、まだまだ夏の名残りたっぷりで、部屋の中は蒸し暑さを感じ始めるぐらいになっていた。
牛乳とパンで朝食を済ませたお兄ちゃんは、8時前に学校へ出掛けて行ってしまった。
僕はお母さんが降りてこない事で、何時もよりまだ早い時間なのかと思い、もう少し眠ることにした。
開け放たれた窓から、夏休みを終え、久し振りに逢う友達と楽しそうに登校する子供達の賑やかな声がどんどん増えて来た。
車の往来の音も多くなり、朝の時間がそれなりの時間に達している事を知らせていた。
僕はすっかり目を覚ましてしまった。
階段の下へ行き、お母さんの足音を探ろうと耳を澄ませた。
下のおばあちゃんの部屋からは朝の日課になっているお仏壇のお参りの音や炊事の音がいつもの様に聞こえてくるが、2階からは物音がしてこないのだ。
一生懸命耳を澄ますが、人の起きている気配がない。
僕は少し尿意も模様して来たので、お散歩の催促で上へ上がって見た。
寝室の前を爪の音を『シャカ、シャカ』と立ててうろついた。
お母さんが思わず寝坊してしまった時など、この爪の音を聞きつけ、あわてて寝室から出てきた事もあったのだが、今日はそれも無かった。
耳を澄ませると、ドアの向こうから二人の気持ち良さそうな寝息が聞き取れる。
僕はどうしても二人のどちらかを呼びたい時は、前足で寝室のドアをカリカリ掻くのだが、なんとなくそれをせず諦めて下へ下りて行った。
僕なりになんとなく、そっとしておいた方が良いような雰囲気を読み取ったのかも知れない。

尿意のおさまらない僕は、下のおばあちゃんの部屋へ救いを求めに行った。
僕を見るとおばあちゃんは「あらっ、リキさん、おはようさん、どうしたんえ、オシッコか、可哀想に」と、僕の表情を直ぐに読み取った。
そして「今日はなあ、お母さん疲れてるから、もうちょっと寝かしといたげてんか、なあ」と、僕にお願いをしていた。
話し掛けてくれるおばあちゃんの言葉に、首を傾げる僕に「そうかあ、我慢できひんか?しょがないなあ」と、何かを決してくれた様である。
「ええか、内緒やで、絶対リキの散歩はあかんて言われてるんやからなあ」と、内緒の相談の様である。
おばあちゃんは下の部屋の戸締りをし、お仏壇のおロウソクを消し、火の始末の確認をしてから僕の首輪とリードを取りつけてくれた。
「この前と違うて、今日は明るいさかい大丈夫やろ。リキその代わりゆっくり行ってや、ええな、ほな行こか」と、お散歩に連れ出したくれたのだ。
我慢の限界に近づいていた僕は、喜んで玄関に出た途端はしゃぎすぎてチビってしまった。
おばあちゃんは「まあまあ、可哀想に、ギリギリやったんか、はいはい、わかったわかった、ゆっくりえ、ええな」と、念を押しながら僕の後をリードを持ってついて来た。
僕は出て直ぐの電信柱で早速溜まっている物を出し、ホッとして後はゆっくりペースでのお散歩をした。
ゆっくりとした坂道を下り、何時もの所で排便も済ませ、何時かの夜におばあちゃんに怪我をさせてしまった所も無事に過ぎた。
おばあちゃんは、明るければまだまだ大丈夫と、少したかを括り始めていた。
自分の運動不足の解消にも良いからと、もう一つ向こうまで回って帰ろうと思い、快い僕との散歩を続けた。

顔見知りの人がいる工務店の前に来ると「あれっ、今日はおばあちゃんと散歩かい、良いねえ」と、声を掛けられおばあちゃんは会釈を交わしていた。
8時半をまわったところで、これから板場に向おうとする人達が何人か表に出ていた。
おばあちゃんが声を掛けられた方に気を取られ、前方に意識が無かった時、20メートルほど先の曲がり角に犬が現れた。
僕は他所のの犬を見ても突っかかる事は無く、2、3歩歩出て視線を送るぐらいなのだが、この時はたまたま歩出た時にリードがおばあちゃんの両足元にからみ、足の自由を奪われたおばあちゃんは尻餅をついてしまった。
僕がそんなに強く引っ張った分けでもなく、そんなにひどい転び方でもなかったので、その様子を見ていた工務店の人も「あらあら、大丈夫ですか」ぐらいで、直ぐに立ちあがれるものと思い、駆け寄る事も無く、転んでしまったおばあちゃんの照れもあるだろうと、遠巻きに見ていた。
おばあちゃんは照れくささ半分に、苦笑いをしながら立ち上がろうとするのだが、立ち上がれない。
この前は前向きに転んだので、手をつくことが出来たのだが、今回は手をつく間もなくお尻から落ちてしまったのだ。
更に間の悪い事に落ちた場所が丁度コンクリートの溝板の上だったのだ。
何時もに無い痛みも出て来たのか、おばあちゃんの顔つきが変わってきた。
僕は転んでもリードを放さないでくれているおばあちゃんに寄り添った。
おばあちゃんは「リキ、ゴメンなあ、立てへんの」と、僕に誤り、照れくささもすっかり無くし、さっき声を掛けてくれた人を呼んだ。
「すんません、挫いたらしく立てないんですわ、近くなんでちょっと家の者に電話してくれませんか」と、お願いをした。
工務店の人は快く「あっ、いいよ、坂を上がった所の角の家だよねえ、番号は」と、直ぐに対応してくれた。

5分とたたない間に、お父さんとお母さんが血相を変えて車で駆けつけて来た。
僕は車から降りて来たお父さんを見つけても駆け寄ろうとせずに、おばあちゃんの傍を離れなかった。
何時もなら、お散歩の途中でお父さんを見つけた時など、尻尾を振り振り駆け寄ろうとリードをぐいぐい引っ張るのだが、この時はおばあちゃんの傍を離れなかった。
お父さんは「どうした、挫いたのか、立てないって」と、おばあちゃんに問い質した。
一緒に下りて来たお母さんは「大丈夫?、何処か強く打ったの?」と、おばあちゃんに声を掛け、僕のリードをおばあちゃんから受け取り「すいません、有難うございました」と、傍にいた工務店の人にお礼を言った。
工務店の人は「そんなに強く転んだ様に見えなかったんだけどねえ、立ち上がれないと言うんでね」と、その時の様子を教えてくれていた。
お父さんは、少し青ざめて道端に座りこんだままのおばあちゃんに「何処が痛い、足首か?」と、気をつけなければいけない場所を確認しながら、おばあちゃんをそうっと抱き上げた。
起き上がれないことで気持ちが動転していて、何処が本当に痛いのか自分でも分からなくなっていたおばあちゃんは、「兎に角立てへんの」と、照れくささも忘れお父さんの両腕に抱え上げられた。
自分の母親を抱き上げるなどと言う感慨深い経験を、この時初めてする事になったお父さんは、その感慨を感じる間もなく、車の後ろの座席にそうっとおばあちゃんを座らせた。
お母さんは「本当に、有難うごさいました。又改めてお礼に伺います。」と、工務店の人にお礼を言い、僕を抱き上げ車の助手席に乗った。
車の苦手な僕は、車が走り始めると落ち着かず暴れ始めるのが常の僕も、皆の雰囲気が何時もと違い、おとなしく抱かれたままになっていた。
後部座席のおばあちゃんがやっと自分を取戻したのか「あいたたっ」と、車の揺れに応じて身体が動いた事に反応した。
お父さんは「何処が痛い?」と、聞きながらゆっくり目に車を走らせ、家の前の道路脇に止めた。
「外科かあ、小林外科が良いか、ちょっと距離はあるけど評判は良いし、遊園地への途中だし」と、お父さんはおばあちゃんを連れて行く病院を選んだ。
お母さんは「リキを下ろしてお財布持ってくるわ、そうそう、おばあちゃん保険証何処にある」と、次の段取りに入った。
9時前、3人は僕を家に残しその足で病院に向った。
何時かの様に「内緒にしとこうな」では済まない事になってしまったのだ。
病院に向う車の中でおばあちゃんは「すまんこっちゃなあ、余計なことしてしもうて、かえって面倒掛けるなあ、それにリキ怒らんといてな」と、自分の怪我の痛みを棚上げにするような言葉ばかり告げていた。

診察の結果、右足の大腿骨の上の部分の腰骨の中に収まる部分の骨折で、手術をして針金を2本骨の中に通し固定すると言う、大怪我である事が分かった。
治療も骨がくっつくのに2ヶ月、リハビリでまあまあ歩けるようになるのに1ヶ月と、3ヶ月の入院を言い渡されてしまったのである。
骨粗そう症の為、そんなに強い衝撃を受けなくても、ちょっとした拍子にでも骨折をしてしまうものだと聞かされ、おばあちゃんの言う尻餅をついただけと言う言葉に今になって頷いていたお父さんお母さんである。
入院の取り敢えずのベッドも決まり、手続きをして看護婦さんに必用になる物の説明を聞き、完全看護だから大丈夫ですと言われ、お昼前に二人は一旦帰ってきた。
僕の表情は何時もと違っていたらしく、何処か申し訳なさそうで、僕を叱る言葉も忘れるくらいであった様である。
ちょうど始業式を終えたお兄ちゃんも折り良く帰って来た。
事情を聞き驚いたお兄ちゃんも、必要になる物を取り揃えるのを手伝い、一緒に病院へ行く事にした。
お父さんはその間に、たった一人の実の姉の本郷の伯母ちゃんに電話をして状況を知らせていた。
伯母ちゃんも驚き、夜家族でお見舞いに来ると返事を返していた様だ。
お父さんは僕の夜ご飯の用意をし、お水をたっぷり目に入れ、帰りが遅くなっても良いだけの準備をしていた。
午後3時に院長先生より、詳しい怪我の症状と入院についての説明があると言われていた事もあり、慌しく3人で病院に向った。

足元にドーム型のやぐらを入れ浮いた状態に薄い肌掛けを掛けてもらい、意気消沈して眠っていたおばあちゃんは、お兄ちゃんの姿を見つけホッとした様に「来てくれたんか、学校は」と、少し元気を取戻していた様だ。
お父さんお母さんに面倒掛けて申し訳無いと言う気持ちばかりを持ち過ぎていたおばあちゃんは、まだまだ自分が心配して気をもむ立場になれるお兄ちゃんの出現で少し気持ちが和らぎ、この際だから皆に甘えようと言う気になれた様である。
お父さんは「どう、何か治療してもらったの?」と、足もとの状況をみておばあちゃんに聞いた。
おばあちゃんは「何か、足を引っ張りますとかで、痛み止めの注射を打って針を刺して、それに何や錘を付けて引っ張るとかやってくれはったけど」と、何かすごい事をやられた様な事を話した。
お父さんは何となく恐々と足もとの肌掛けをめくり覗いて見た。
「ええっ」と言うお父さんの表情に、お母さんとお兄ちゃんも恐る恐る覗き込んだ。
ふくろはぎの真中辺りに、畳針のような太い針を衝き通され、針の両側に細めのロープが掛けられ、その先はベッドの足もとの滑車を通って下の錘に繋がっていた。
衝き通された針の両側のふくろはぎにはヨードチンキがペットり塗られていたのである。
刺さっている針の太さに身の縮む思いのお父さんは、少し落ち着いて「ふーん、こうやって突っ張って固定するんだ」と、その仕組みに感心する素振を見せた。
「それで、固定してもらったら痛みは少し収まった?」と、おばあちゃんを気遣った。
「そうやなあ、なんや、ようわからんけど、少しはええみたい」と、少し甘え口調でおばあちゃんは話した。
「ほんまに、えらい事してしもうたわ、こんな大事になるやなんて」と、申し訳なさそうに続けた。
お父さんは「それだけ骨が弱くなってたんだなあ、まあ言い機会だよ、ゆっくり静養するんだな」と、おばあちゃんを慰めた。
動転していたおばあちゃんは、優しい言葉に「そやけど、帳簿どうすんの、あんたやれるか?」と、仕事に対する心配をし始めた。
お父さんは「そこまで気が回るぐらいなら大丈夫だな」と、意気消沈しきっていたおばあちゃんの落ち着きにホッとしていた。
二人の会話に、お母さんとお兄ちゃんも笑顔を見せていた。

3時になりお父さんは院長先生の所へお話を聞きに行った。
「このレントゲン写真を見てもらえば分かる様に、大腿骨頭の骨折です。これは骨粗鬆症の進んだお年寄りには多いんです。
只この場所は良く動くところで、固定する事が困難なので手術をして、骨の中に太い針金を2本入れて固定します。
3、4日中には手術をしますがそれまでは、足を吊って固定しておきます。
ご覧になったと思いますが、ちょっと痛々しい格好になりますが、固定するには止むを得ません。」と、院長先生は怪我の状況と今後の治療についての説明をお父さんに聞かせた。
そして更に「お年寄りなので骨がつくのに2ヶ月、その後リハビリをして歩ける様になるのに1ヶ月、都合3ヶ月の入院をして頂く様になります。そこで、ご家族の方にご協力をお願いしたい事があります。」と、何か気になる話をし始めた。
「お年寄りの足の怪我の場合、ベッドから出られない期間が長くなり、その間に痴呆症を発症してしまう事が時々あります。完全看護とは言え精神的な刺激などのケアをご家族の皆さんに協力して頂きたいのです。」と、お父さんに長期療養の為に危惧される所を話して聞かせた。

お父さんが病室に戻ってきた。
「大体3ヶ月掛かるって、手術は2,3日の内にやるそうだよ。手術については通常やるものでそんなに心配はないそうだよ。只入院が長いから呆けない様にって。」と、お父さんはそれ程深刻でない素振であっけらかんと話した。
おばあちゃんは「ああ、そうかあ、有難う。そやけど、呆けん様にて言われてもなあ」と、ベッドの傍に居たお兄ちゃんとお母さんに何か同意を求める様に顔を見合わせて言った。
お父さんは「いや、要するに環境と生活のリズムがすっかり変ってしまうから、昼間から寝てばっかりになり、刺激もなくなって呆けてしまうらしいよ。
だから、手術して落ち着いたら少しずつ帳簿を持って来るよ。」と、おばあちゃんに告げた。
お父さんの提案に始めは3人とも「ええっ」と言う顔したが、おばあちゃんが「まあそやなあ、帳簿かどうなってるか気いもんでるより、少しでもここで出来たら、かえってええかもなあ」と、自分が呆け防止の為に続けている帳簿の持ち込みを、むしろ望む言葉を返した。
お父さんは「まっ、自分は毎日遊園地の行き帰りに寄れるし、昼間の時間だけあんまりぼーとしない様にしてれば心配ないよ」と、少し労わりの優しさを覗かせた。
お父さんは根っからの硬派で、学生時代にはラグビー一筋で、女、子供への優しさを表現する事に特に苦手意識を持っていた人である。
そのくせ人一倍家族思いで、その思いを常々言葉に出せば良い所を、テレがあるのか口に出す言葉は何時もきつい物になる事が多かった。
僕にだけは優しさをストレートに表現してくれるのだか、それも僕が積極的に甘える事を厭わなかったからなのだろう。
お父さんはその優しさを本当に必用とした人には、それはそれは人も真似できないくらいに優しくなれるのである。

その後3ヶ月お父さんは1日も欠かさず病院通いを続けた。
朝は今までより30分早く出て、病院の朝食に付き合い、遊園地の帰りに叉病院により、夕食後の自分の母親の入れ歯の洗浄をするのが日課になった。
そして週1、2回はお母さんとお兄ちゃんが顔を見せに来た。
おばあちゃんもとても呆けるどころではなく、帳簿もやり、お兄ちゃんの受験の心配もしと、結構刺激のある入院生活となった。
お父さんに甘える事が苦手だったおばあちゃんも、すっかり甘える事を潔しとするようになり、色々と家族の刺激を受けながら、治療とリハビリに専念する事となったのである。
仕事上やむを得ない時以外は、余りに熱心に通ってくるお父さんの事が病院でも評判になり、「優しい息子さんで良いわねえ」と、おばあちゃんは羨ましがられる程であった。
おばあちゃんが退院して帰ってくるまで僕の晩酌のお相手は、お預けになったままになってしまった。
元はと言えば僕が原因の今回の事件も、自分の母親への優しさを伝える事の出来る良い機会になったと、良いように採ってくれたお父さんである。
お陰で僕の立場も助かり、大怪我をさせた愛犬としての汚名は着る事が無くなったのである。
そして、3ヶ月後おばあちゃんは右手に杖を持ってやっと帰ってきてくれた。
僕は嬉しかった、「だだいま、リキさん、昼間はひとりで大丈夫でしたか」と、おばあちゃんが僕に話しかけた時、いきなりはおばあちゃんに擦り寄る事が出来なかった。
それでも、1週間ほど静養すると叉始まったおばあちゃんの晩酌のお相手はしっかりと僕が勤める様になったのである。
おばあちゃんの入院中にはお兄ちゃんも、大学の指定校推薦に受かり、春からは6大学の学生になる事を約束されていた。
お父さんの出身校とはラグビーの宿敵に当るが、お父さんもお母さんも現役で受験を見事突破したお兄ちゃんをとても親孝行だと喜んでいた。
おばあちゃんには甘えが先行するお兄ちゃんも、傍にいなかったことで奮起した結果、おばあちゃんに良い所を見せられた様である。
こうして、この家にとっての今回の大事件も、痛さを堪えて先ず告げた「リキ怒らんといてなあ」のおばあちゃんの一言が、皆を思い遣る心に広がり、おばあちゃんの右足の中に太い針金を残しただけで、家族の優しさをお互い知り合える、良い機会となったのである。