11 翡翠(長寿)

3月になると僕の身体は本格的に弱り始めた。
少し落ち着いていた食欲にもむらが出て来てしまった。
それと言うのも足がすっかり弱ってしまい、食事の間も立っていられなくなってしまったのだ。
月初めの頃はまだお父さんかお母さんに軽く支えてもらっていれば、なんとか食事を取る事が出来たのに、中頃になるとしっかり抱きかかえてもらわないと食事を取れなくなってしまった。
食事の量も半分ぐらいまで減り、それも上手く舌ですくえなくなり、食事中に何度もボールの中の食物を盛り上げてもらいいながらやっと食べられると言う始末である。
食事の後は少しの間抱きかかえてもらって、ゲップの様な喉の奥の音を聞いてから横に寝かせてもらう。
自分の足で立てなくなってしまった事で、トイレも外へ行く事がなくなり、1日中オムツの厄介になる事になった。
始めはオモラシをした時のためにしてもらっていたオムツも、排泄の為の当たり前の道具になってしまっている。
それでも、尿意、便意をもようすと首を持ち上げ何となく欲求を知らせる。
お父さんかお母さんが気が付き傍に来て「いいよ、しちゃっていいよ」と、声をかけてくれる。
オムツの中にする排泄は今一つすっきりせず、「出たかな」と、オムツを取り替えてもらって、湿った身体を拭いてもらっている最中にしてしまう事も時々あったり、替えたばかりの真新しいオムツにいきなりオシッコやウンチをしてまうのだ。
「なんだなあ、替えたばっかりなのに、もうしちゃったの」と、叉替えてもらう事もしばしばである。
お母さんは「赤ちゃんと同じだね、気持ち良くなると出ちゃうんだよね」と、お兄ちゃん達の育児の時を思い起こしていた様だ。
老衰と言うのは元気だった命が、段々と生まれた時の状態に戻る事の様である。

段々と日を追うごとに鳴き声も弱々しくなり、夜鳴きの声が2階まで届かず、お父さんお母さんの寝不足の原因からは遠のいた。
ただ、春になり仕事が忙しくなり始め、朝先に降りてくるお父さんが僕の胸元が動いているかを確認するまで、不安な思いを抱きながらの目覚めはつらそうであった。
そして「どうだい、大丈夫か、喉乾いたでしょう」と、先の尖ったポリエチレン製のドレッシングの入っていたビンで水を口の中に注ぎ入れてくれる。
ペチョペチョと舌を動かし水を飲む、喉の奥がゴクッと動くと「ようし、よしよし」と、少し安心を取戻すお父さんの毎朝となっていた。
朝、早く出かけるようになったお父さんに代わり、夜はお母さんが面倒を見てくれる様になった。
深夜、僕の傍にいるお母さんも、僕の状態が良くなる方向へは決して向う事のない老衰である事を、徐々に理解し始め何処かで覚悟を決める心づもりを持ち始めていた。
あんなに意味のない夜更かしを嫌うお母さんが、深夜テレビを見ながらも僕の傍にいる時間を長くする事を厭わなくなった。
朝お父さんが出かけた後、お母さんが色々と工夫をして食事を与えてくれるのだが、寝たきりになってしまった僕は上手く飲み込めず、ほんの一口か二口になり、食事と言うまでには至らないものである。
そして、ウンチがゆるくなって後始末が大変だからと与えられる事があまり無かった牛乳も、とことん落ちた食欲の補助にと、ポリエチレン容器で飲ましてもらうようになった。
そう言えば、僕がこの家に来て初めての食事が牛乳であった。
今、僕の寿命の限りはそこまで来たのかも知れない。

暖冬、暖冬と騒がれ、桜の開花も10日も早くなるのではと言われていたが、去年より2、3日程度早いのものに落ち着いた。
そして、3月の終わり頃にはすっかり満開になった。
3月31日お母さんはその日の朝僕が水を飲み、ミルクも少し飲めて落ち着いているのを見て、一つの決断をした。
お花見に出かけようと言うのだ。
夜更けの雨もすっかり止み、天気は急速に回復し気温も春らしい暖かい日になっていた。
「リキ、一緒に行けないね、お母さん一人でいってくるからね」と、眠っている僕に言い残し、スニーカーを履いて出かけて行った。
家を出ると、ご近所のお屋敷の桜が満開に近い事を確認し、鷺沼に向った。
バス通りの両側には所々にある桜の木々が、そしてちょっと脇にそれた小台公園の桜は見事に咲き揃っていた。
公園ではビニールシートを広げてお花見の宴会も始っている。
その先の小さな公園の桜も満開で、道から低い所にあるこれらの公園の桜は、見上げて楽しむ桜を所によっては眼下に楽しむ事も出来る。
田園都市線沿いの道に出ると、東急電鉄の敷地内の桜もきれいである。
そして、鷺沼の駅前の桜のトンネルにさしかかる。
お母さんはここまでは歩いて来た事も時々はあったが、今日は何かを思い、何かに踏ん切りを付ける為に更に歩き続けた。
駅前の大木の桜のトンネルは見事である、路線バスが下を潜り抜けるのに充分な高さを持ち、その密生度もかなりなもので、日の光も薄い花びらを通しての薄明かりしか届かない様である。
お母さんは桜のトンネルを過ぎたまプラーザに向った。
ここも道の両側が桜並木でなかなかのものである。
鷺沼小学校を過ぎた所の公園ではお弁当を広げてお花見を楽しむ家族連れが一杯で、いかにも春休み真っ盛りであった。
東名高速の陸橋を超え緩やかな坂道を下るとたまプラーザの駅に出る。
ここも道の両側が桜並木で、満開であった。
お母さんは思った7、8年前にはおばあちゃんと僕の3人連れでお花見したのに、今日は1人きりかあ・・・・。
でもこれからももっと一杯お花見を楽しもう、きっと他の二人もそうして欲しいと思ってくれていると、やっと思えるようになった。
お母さんは意を決して更に歩き続け、途中まで引き返し鷺沼から道をそれお友達のKさんの家の前の樫の聞木公園に向った。
このKさんもとても犬好きで、僕の事もとても可愛がってくれ、僕もそれが良く分かり、Kさんが来るとウレションをしてしまうのが常であった。
誰かが訪れて来てウレションをしてしまうのは、このKさんだけだったかもしれない。
お母さんは樫の木公園から北高の脇を通りうさぎ公園へと足を向けた。
お母さんと僕の散歩道である。
お母さんは僕とのお別れの近い事への踏ん切りを付けて来たようである。
そして、風でもげたのか道端に落ちていた10センチ程の桜の枝を拾った。
まだ落ちて間も無いのか、小枝の先には精一杯に咲き誇る桜の花が7、8輪付いていた。
お母さんは少し嬉しそうに、大切そうにその小枝をもって帰ってきた。
3時間近くの散歩から帰って来たお母さんは、ちょうど薄目を開けてぼんやりしている僕の前に来て、「リキ、ほら、桜だよ、見える、何処もきれいだったよ」と、僕の目の前に桜の小枝を差し出してくれた。
はっきり物が見えなくなって来ていた僕の眼に確かな薄いピンク色の桜がぼんやり見えた。
僕の眼は7、8輪の桜で満開になった。
お母さんありがとう、お陰で僕こんな身体になってもお花見が出来たよ、本当にありがとう。
お母さんは僕の涙腺が緩んであふれる涙をいつもの様にティッシュで拭き、自分も同じティッシュで目頭を押さえていた
そして、片手で桜の枝を僕に見せながら、もう一方の手でお水とミルクを少し飲ませてくれた。
こんなに優しいお母さんに乾杯である。
それから、お母さんは可愛い小ビンに水を注ぎ桜の枝を入れ、お仏壇に供え手を合わせた。

7時過ぎにお父さんが帰って来た。
何時もの様に先ずお仏壇にお線香をあげる為に畳の部屋へ行った。
お仏壇に桜の小枝かお供えしてあるのを見て、昨日の夜お母さんが「明日一人で桜見に行ってくる」と、言っていた事の意味を悟った。
お父さんは蝋燭に火を点し、お線香に火をつけお供えして、何時もより少し長く手を合わせていた。
そしてお母さんもやっと僕とのお別れの近い事を受け入れ始めたのだと思った。
実はお父さん自身にとっても、僕とのお別れは受け入れ難い事であったのだ。
責任ある仕事もあり、大の大人のそれも男が愛犬ごときに振りまわされては、と思いつつも僕への思いは特別の様てあった。
今年になってお父さんは、僕とのお別れをしない方法がないものかと考えた。
生命に限りがなければそれも叶うであろうが、それはあり得ないことである。
老衰ばかりは医学薬学ではどうにもならないのである。
僕の体型から推定される、人に置き換えた年齢は100歳ぐらいとなれば、今の体力の衰えは回復の望めないものなのである。
お父さんの心の中に住み付いた、一心同体と思えるほどの僕との絆を、もし生命の限りが引き裂こうものなら、耐えがたいものになるだろう。
病気であったり事故であったりと何かを後悔する事で、その別れを受け入れるのでない事は、一番辛い事なのかも知れない。
大往生であったと喜んでやる事など、別れである限りとても出来そうに無かった。
お父さんは決心をした。
僕が命の限りを迎えても、お別れをしないと決めたのである。
お父さんの心と頭の中で何時までも僕が生き続けるのだ。
それでも思いと言うのは薄らぐ事がある、そこでお父さんは生まれてこの方書いた事もない物語を書く事にした。
これで僕は何時でもお父さんの中で生き続けていられる。
お父さんのパソコンの中でまだまだ甘え、わがままを言い、元気に走り回れる事が出来るのだ。
お父さんはこの決心をしてから、僕の衰えをやむを得ない事としっかり受け止め、別れのその時まで更にしっかり僕を見つめてくれている。
お父さんの踏ん切りは、僕を自分の心と頭の中で生かし続けることであったのだ。

リビングに上がって来たお父さんは「ただいま、どう、リキは何か口にした?」と、お母さんに聞きながら僕のそばに来てくれた。
お母さんは「全く食べてくれないの、お水も少しだけ」と、切なそうに答えた。
お父さんは跪き僕の頭を優しく撫で、目の下から口の周りをそうっと撫で上げてくれた。
うつろな中で僕が少し口を動かしペチョペチョと舌の音を立てると、ポリエチレン容器で水を少しずつ注ぎ入れてくれた。
ペチョペチョ、ゴクンと喉の音がして、飲み込めた事を確認すると「ミルク飲んでみるか、リキ」と、水の容器を牛乳に替え注いでくれた。
お水ほどスムーズに入っていかない口元を見ながら「ミルクは嫌か、そうかそうか、じゃ、はいお水」と、叉お水を注いでくれた。
牛乳でねばっこくなった口の中を洗い流す様にお水を一口二口飲み、またそのままとろとろし始めた僕に「いよいよ、お水だけになっちゃったか」と、お父さんも切なそうに言った。
そして二人の夕食が始り、お母さんは今日桜見物にどれぐらい歩いたかの話をした。
テレビはついていたが僕がこの家に来たばかりの頃と同じ様に、二人の視線は僕に向けられる時の方が多かった様である。

夕食後暫くしてお父さんはお兄ちゃんに電話をしていた。
「どう、仕事の方少しは落ち着いた?」と、ここ2ヶ月程帰りが毎晩12時を過ぎると聞いていた事への労いの言葉を掛けた。
「うん、少しはね。でも、研修の最後の詰めがいよいよだからねえ、今度は家で徹夜だよ」と、お兄ちゃんが答えた。
「あっそうか、まだまだ大変だ。いや先週顔出さなかったから、そうかなとは思ったんだけどさあ・・。
実はリキがいよいよみたいなんで、まだ応答のある内に逢っておけばと思ってさ」と、お父さんが告げた。
「ええっ、あっそう、もうそんななの?」と、お兄ちゃんが聞き質した。
「そう、だってもう3、4日何も食べないんだからもう持たないだろう」と、お父さんが言うと、お兄ちゃんは直ぐに
「そう、それじゃあ、直ぐに行くよ。」と、答え電話を切った。
去年の5月に結婚してから月に1、2度は顔を出し、時々お嫁さんも一緒に来てくれて、僕を励ましてくれていた。
今年になって僕の体力の衰えと激痩せが始ってからは、毎週の様に週末に顔を出し僕の介護のお手伝いをしてくれていた。
来るとお兄ちゃんなりのやり方で「とにかく少しでも食べないとね、リキ」と、言いながら僕に食事を与えてくれるのだ。
そして、お父さんが後から帰ってくると「今日はビーフジャーキーを20本食べてくれたよ」とか「今日はチーズを少し食べたよ」とか報告をしていた。
3月末に立ち上げなければならない事業の詰めの仕事に追われながらも、何時も僕のことを気に掛けてくれているのだ。
研修のレポートにも追われ始めたのか、さすがに先週は顔を出せなかった所へのお父さんからの電話であった。

30分程してお兄ちゃんがお嫁さんと二人で来てくれた。
二人は僕の傍に跪き、優しく頭を撫で、動けないから寒そうだし、痩せ過ぎた身体を見るに忍びないと掛けられている薄い膝掛け毛布をめくり、骨だけになってしまった身体を摩ってくれた。
お兄ちゃんは週末に来れなかったからと、つい最近のウィークデーに10分ほど立ち寄った時より更に痩せ衰えた僕の身体を見て「リキ、えらいねえ、良く頑張ってるねえ」と、誉めてくれた。
お兄ちゃんは「もう、何も食べられない?」と、お父さんに聞いた。
お父さんは「そう、もう、ミルクも喉を通らないみたい」と、答えた。そして「水ならまだ少しは飲めると思うよ、あげて見て」と、付け加えた。
お兄ちゃんはポリエチレンの容器で少しづつ水を注ぎながら、「飲める、リキ」と、涙で一杯のうつろな僕の目を見ながら声を掛けた。
少し舌を動かし、喉が動くのを見て「飲めたね、えらいえらい」と、叉誉めてくれた。
一口でもうトロトロし始めると「ようーし、よしよし」と、頭を撫でてくれた。
この2週間ほどは殆ど固形物を口にしなくなっていたので、痩せ方は尋常ではない。
あばら骨はくっきり浮き上がり、お腹の部分は内臓が無くなったのかと思えるほど細くなり脊椎だけになってしまった感じである。
そして、骨盤から脚もその骨の形がはっきり見えるほどである。
もう痩せる所が無いであろうと思える僕の身体ではあるが、まだまだ人の暖かさは分かるのだ。
そして、生命力と言う物はすごいもので、口からそれを保つ為に必要なエネルギーが入って来なくなると、自身の身体の脂と言う脂などエネルギーに変えられる物を全てエネルギーに変え、生命を保つのである。
幸い僕は体力が衰えても呼吸不全とか心臓疾患とかの余病を併発しないで済んでいる。
だから、呼吸を荒げる事も無く、痛みに苦しむ事も無く、只トロトロと出来ている、これも、皆の手厚い介護のお陰なのだろう。
2時間ほどしてお兄ちゃん達二人は帰って行った。
帰り際に何時もなら僕に「頑張ってね」と、力強く励ましてくれる言葉も、今日は少し優しく『ありがとう』の意味を含めていた様であった。

そして、いよいよ桜は満開になった。
日曜日は天気も良く、お父さんも例年に無い忙しさを乗りきり、7時過ぎに帰宅した。
何時もの日曜日なら大きい方のお兄ちゃんが麻雀に来るのだが、お父さんの忙しさがピークであり、疲れているだろうからと今日はパスと言うことになっていた。
僕の状態も思わしくない事で麻雀と言う気分でもなかったのだろう。
お父さんは帰って来てリビングに上がってくると、先ず僕にお水とミルクを飲ませてくれる。
ミルクを飲みにくそうにすると、「やっぱり駄目か、リキ」と、がっかりしながら叉少し水をくれる。
二人が夕食の後「後、どれくらい持ってくれるかねえ」と、お母さんが言うとお父さんは「食べなくなって1週間て言うからなあ、どうだろう、もう何日もないかもね」と、何か淡々とした会話が続いた。
お母さんが「明日は仕事に出なくちゃいけない日だし。二人共いない間に何かあったら可哀想だしねえ」と、お父さんに告げた。
お父さんは「でも、今は動けなくなってもがく事も無いし、ただ寝てるだけだから心配は無いよ。ただ喉がひっつかない様に水だけはやりたいよねえ」と、答え「店の方は少し遅めに行けばいいよ、自分が出来るだけ早く帰ってくるから、なんとかなるよ」と、付け加えた。
そして、明日も早いからとお父さんが先に寝室へ上がって行った。
翌朝お父さんは夕べあんな話をした事もあって、何時も以上に心配な面持ちでリビングに下りて来た。
カーテンを開ける前に僕に掛けられている膝掛け毛布の胸の辺りを見て、まだまだ上下にしっかりと動いている事を確認すると、カーテンを開け、もう一度僕を見る。
明るさに反応する様にうつろな目を開けると「おはよう、リキ、喉乾いたか?」と、お水を飲ましてくれた。
一口二口とお水を飲めた僕を見ながら、本当にホッとした表情に変り、朝の支度にとりかかった。
お父さんが出掛けた後、今度はお母さんが何度か水を口に含ませてくれた。
そして、お昼前お母さんは「リキ、はいお水、お母さんも出掛けなくちゃいけないの、お父さんが帰ってくるまで大丈夫ね、ゆっくり寝てなさい」と、お水を一口飲みながら叉トロトロし始めた僕に言い聞かせ、何時もより遅めにお仕事に出かけた。

そして今、僕の命の灯火は最後を迎えていた。
蝋燭の白い蝋の部分はもう使い切って、熱せられて透明になり芯に吸い上げられる蝋が僅かに芯の下に残っているだけになっていた。
風に拭かれて倒れ、まだまだ白い蝋の一杯残ったまま消えてしまう灯火や、強い風にあおられとけた蝋が外に流れ出し、芯が吸い上げる蝋が少なくなり寿命を迎えた命の灯火など、与えられた寿命を最後まで使い切れる命の灯火は、そうは無いのかもしれない。
僕の命の灯火は生まれたばかりの頃に、一度消されそうになった。
そしてパルボと言う怖い病気に掛かった時強風にさらされた。
でも、その時々に僕の回りに現れた人達のお陰でここまで来た。
幸運だった、そう僕は出遭えた人達皆にに恵まれたのだ。
そして、人の暖かさを知り得た事が、僕にその寿命の限りを生き抜く事を許されたのかもしれない。

夕方お父さんは6時過ぎに、何時もより少し早めに帰って来てくれた。
お父さんはお仏壇に向う前に、先にリビングの僕の所に上がって来て、薄暗くなった部屋の明かりもつけずに、膝掛け毛布の動きを確かめた。
まだ確かに上下に動くのを確認すると、お仏壇にお線香をあげに行った。
そして、リビングに戻って来て電気を点け、カーテンを閉め、僕の傍に跪き僕の目を見た。
「一人で大丈夫だったか、良い子だ、お水だね」と、少し心配そうに言った。
僕が珍しく少し口を開け、微かな『ぜいぜい』と言う音を立て、口で息をしていたのだ。
「どうした、苦しいのか?お鼻が詰まったのかな」と、言いながら頭を撫でながら少し首の位置を変えてくれた。
すると『ぜいぜい』と言う音は収まり鼻で普通に息をし始め、口をペチョペチョ動かした。
「分かった分かった、はいお水だよ」と、ポリエチレンの容器で水を飲ましてくれた。
一口二口三口、少し多めに水を飲む事が出来、4、5日前と同じ様に飲みながら目を閉じ眠り始めた。
「ようーし、よしよし、落ち着いたか、良かった良かった」と、ホッとした様にお水の容器を置き、僕の前足を握り冷たい肉球を暖めてくれた。
今の眠り具合はここ2、3日より変に熟睡しているなあとお父さんは感じていた。
それでも、落ち着いているのだからと安心する事にして、簡単な夕飯の支度にとりかかった。
最近は週に1、2度、お母さんがお店に出て帰りが遅くなる時はお父さんが簡単な夕飯を用意する事があったのだ。
9時前にお母さんが帰って来た。
「ただいま、リキは大丈夫だった。」と、お母さんは玄関を上がりながらお父さんに声を掛けた。
「お帰り、大丈夫そうだよ。帰って来たら少し口で息してたから心配したけど、ちょっと首の位置変えてやったら落ち着いて、水飲みながら寝ちゃったよ。なんかそれもやけにスヤスヤ眠ってるよ」と、お父さんが答えた。
お仏壇にお参りをしてリビングに上がってきたお母さんは、何時もなら着替える前にすぐに僕の頭を撫でに来て「ただいま、リキ、どうお、大丈夫?」と、声を掛けうつろな目に溜まった涙を拭いてくれるのだが、この日ばかりは帰りの途中ずうっと僕の事で気を揉んでいたのが、お父さんのスヤスヤ眠っていると言う言葉にホッとし過ぎたのか、僕の様子を立ったまま確かめ変に起こさない方が良いかと思い、先に着替えに上へ上がって行った。
二人の食事中も「やけにスヤスヤ寝ちゃってるよね」と、お互いに言いながら、視線だけは僕の方へ向けていた。
あまりに熟睡している様子に、時々は膝掛け毛布の動きをも確かめていた様である。
9時半頃、食事を終えた二人はソファーに座りテレビを見ていた。
どの番組を見ても、コマーシャルだったり、番組の内容の区切りだったりすると、僕の方に視線を落としてくれていた。
僕の傍で僕の身体に触れるには、あまりに熟睡出来ている様に見え、その胸の鼓動だけを確かめていたい心境だったのだ。
そしてその動きは乱れる事も無く、弱まる様でもなく、まだまだ正確にリズムを刻んでいたのである。