12 アジュラマカイト(絆)

11時前二人はテレビのバラエティー番組を見ていた。
その日は春の特番で、以前放送されたもののハイライトをプレーバックして放送していた。
あのマイケルジャクソンが突然収録中のスタジオに現れると言うサプライズ場面になった時、お母さんが「そうそう、これ見たよねー」と、言うと。
お父さんも「ああ、そうそう、見た見た」と、そのサプライズが一番の盛り上がりになる時に、何かタバコでも吸おうと思ったのか、ソファーから立ちあがり、タバコの置いてあるダイニングテーブルの方へ行こうとした。
そして、当然の様に普通に僕の方へ視線を落とした。
「ええっ、リキ」と、お父さんが思わず声を出した。
お父さんの声に驚いて、お母さんも深くもたれ掛かったソファーから身を乗り出した。
お父さんは「動いてないよ、動いてないよね」と、一瞬立ち竦み自分の目に写った僕の胸元の様子を自分に確かめる言葉を続けた。
そしてそのまま、僕の傍に座りこみ「リキ、もう動かないの。リキ、死んじゃったの。ええリキ」と、ほんの2、3分前には確かに上下に動いていた僕の胸に手を当て、微かでも良い、手に鼓動が伝わらないか探ろうとした。
お父さんにしてもお母さんにしても、こんなに何の前兆も無く僕の命が終わりを迎えるなどとは思いもしなったのである。
身を乗り出したまま、一瞬腰が抜けた様に動けなかったお母さんは、「まだまだ温かいそのままだよ」と、膝掛けを剥いで僕の身体を摩り続けるお父さんの言葉に、やっとどうにかソファーから下り、「リキーっ、死んじゃったの、リキ」と、お父さんの脇に座り込み、僕の身体中を撫でてくれた。
お母さんの目からは大粒の涙がどんどん溢れていた。
お母さんは涙も拭かず僕の身体を摩り続けた。
お母さんの涙は、大粒のまま僕の身体に降り注いだ。
お父さんも目を充血させながら「そう、えらかっねえリキ。苦しくなかったかリキ、ゆっくりおやすみ、ご苦労さん」と、僕の薄目を開いたままになっている目元を両手で優しく摩り、目を閉じさせてくれた。
目を瞑る事が出来た僕の顔を両手で挟み、僕の黒い鼻にキスをして「ありがとう、向こうでおばあちゃんが待ってるからね、叉晩酌のお相手でもしてあげてね」と、僕とのお別れを告げた。
お母さんも涙の溢れる顔を僕の顔に摺り寄せ「リキ、ありがとう、リキ、ありがとう」と、僕とのお別れをした。

僕の命の灯火は最後の溶けた蝋まで吸いきりしっかり燃やしきり、そしてその芯までもが黒く残らず白い灰になるまで燃え尽き、寿命の全てを使い切って消えたのである。
お父さんお母さんありがとう、僕の寿命の全てを見届けてくれて、こんなに大切にされて本当に嬉しかったよ。
これでもうお父さんお母さんの優しさを永遠に忘れないでいられるんだよ。
ありがとう、本当はずうっと二人の傍に居たかった・・・・、でも、寿命の燃え尽きる所まで見取って貰えた幸せは天国に行っても自慢出来るよ。
お父さんお母さん寂しがらないでね、僕は何時までも二人の心の中に生きているよ。

お父さんとお母さんは僕とのお別れをしてから、僕の身体をきれいにしてくれた。
二人で僕の亡骸を大切そうに抱き上げ、その時に現れる症状の脱糞排尿の処理をし、お湯で絞った温かいタオルできれいに拭いてくれた。
そして、お父さんはお仏壇から何時も供えられているお花を持って来て、僕の顔の傍に置いてくれた。
その日に供えられていたのは玄関先でお母さんが丹念に育てている白いクリスマスローズの切花と、濃い目のピンク色のランの花であった。
お母さんは「今もっと新しいの切ってくるから」と、言いながら僕の顔の周りを囲める程のクリスマスローズを持って来た。
それからお父さんは、蝋燭立てとお線香立てをお仏壇の前の小卓に用意して僕の枕元に置いた。
そして、蝋燭に火を点し、二人は一本ずつお線香をに火を点け手を合わせた。
一息ついて、11時半頃になっていたが、もう帰って居るだろうとお父さんはお兄ちゃんに電話をした。
お兄ちゃんが電話に出ると「ああっ、帰ってた。さっきちょっと前にとうとうリキが死んじゃったよ」と、お父さんは報告をした。
「ええっ、あっそう、それじゃ直ぐ行くよ」と、お兄ちゃんは答え電話を切った。
10分と経たないでお兄ちゃんがお嫁さんと一緒に来てくれた。
「やっぱりだめだった」と、お兄ちゃんは残念そうに言いながら僕の傍に立ち「おおっ、お花で綺麗に飾ってもらったじゃない」と、僕の枕元に跪き、僕の頭を撫でてくれた。
お嫁さんもその横に跪き身体を撫でてくれた。
そして二人はお線香に火をつけ手を合わせてくれた。
お嫁さんの目にも涙が溢れていた。
お兄ちゃんは「でも、良く頑張ったよ、ねえリキ」と、涙の止まらないお母さんを慰める言葉を告げた。
お嫁さんは何時も以上に控えめに「ここまでしてもらって、リキちゃんは幸せだったでしょう」と、言葉を選びながらお父さんお母さんを慰めた。
お父さんが「まだ温かいでしょう」と、言うと、
お兄ちゃんは「ほんと、なんか眠ってるみたい」と、いいながら僕の耳をクリクリして
「耳なんかぜんぜん柔らかいし、そのままだね」と、その感触を思い出していた。
お兄ちゃんに最後の甘えのお別れをさせてあげようと思ったお嫁さんは、その場を少し下がりダイニングの方の椅子に腰掛けた。
今度はお母さんがお兄ちゃんの横に座りこみ、膝掛けをめくり「こんなに痩せちゃうんだね。ほらっ」と、僕の腰の辺りから背中をさすり、叉涙を溢れさせていた。
お母さんとお兄ちゃんは僕の身体の何処かを摩りながら「でも、本当によく頑張ったよ、一週間近くも食べてないんだから」と、僕に安らぐ様に一生懸命心を伝え、そして最後の僕に対する甘えのお別れをしていた。
翌日のお嫁さんからお母さんへのメールに「昨日はありがとうございました。家族3人で水入らずのお別れが良いのか悩んだんですが、私もこれからはしっかり家族なんだから一緒にお別れさせてもらおうと思って行ってしまいました。行って良かったです。ありがとうございました」と、書かれていた。
お兄ちゃん、こんなに思い遣りのあるお嫁さんならもっと早くに家族になりたかったね。
ありがとうお兄ちゃん、弟の僕が先に歳をとっちゃんたんだから、こんなお別れになっちゃったけど、僕を何時までも弟にしておいてね。
僕の耳をクリクリ出来なくなるけど、その感触だけは忘れないでね。
僕とお兄ちゃんだけのコミュニケーションだったんだからね。
僕は先に行ってるおばあちゃんに叉甘える事にするよ。
そして、こんなに思い遣りのある可愛いお嫁さんが、お兄ちゃんの所へ来てくれた事もちゃんと伝えるからね。
きっと、おばあちゃんも喜んで、叉乾杯の晩酌だね。
お兄ちゃん幸せになってね、そして家族もいっぱい増やして、賑やかな楽しい家庭を作ってね。

12時になっていたがお母さんは大きいお兄ちゃんに電話をしていた。
「遅くにゴメン、いや実はさっきリキが死んじゃってね。」
「そう、今二人で来てくれてるの。ええっ、いいよいいよ、もう遅いし、二人共明日は仕事もあるし。今度来た時でもお線香上げてくれれば、取り敢えず報告をと思って」
「うん、ありがとうね、じゃあね」と、電話を切った。
大きいお兄ちゃんとは一緒に暮した事のない僕だが、大きいお兄ちゃんもお母さんがどれほど気落ちしているか分かったのだろう。
直ぐにも二人で駆けつけ様と思ってくれたらしい。
お兄ちゃんのお嫁さんも色んな事への気配りの出来る、思い遣りのあるしっかり者の姉さん女房で、ベテランの歯科衛生士で、お兄ちゃんの確かな右腕である。
3月中頃にお母さんのお誕生会をレストランでやり、何時ものようにボーリング、カラオケを楽しんだ際、お嫁さんの指には去年の暮れにお父さんが二人のお嫁さんの為に手作りをしてプレゼントした、シルバーのバラのリングをさりげなく着けていてくれた。
毎週の様に麻雀に来ては、衣類に着けて持ちかえる僕の毛が何時の間にか当たり前の様に部屋に舞う様になり「家にもリキちゃんの痕跡がしっかりありますから」と、ここのところの僕の様態を気に掛けていてくれた様である。
僕と大きいお兄ちゃんの想い出は、麻雀に来る時夕飯が間に合わず途中で買ってくるハンバーガーに付いているフライドポテトを一緒に食べた事かな。
僕に対する思い入れはそれ程強くは無いだろうと思っていたが、そうでも無かった様である。
次の日曜に麻雀に来た時、何時も少し遅れ気味に皆を待たせるお兄ちゃんが珍しく約束の時間より少し早く来て、リビングに上がって来るなり「で、リキのお墓と言うか、位牌と言うかは何処」と、お父さんに聞いた。
お父さんは「ああ、お仏壇の前に奉ってあるよ」と、告げると、
「じゃ、ちょっとお線香上げてくるよ」と、僕とのお別れが出来なかった事が如何にも気になっていた様であった。
ありがとう大きいお兄ちゃん、お兄ちゃんの心の中にも僕は住み着いていたんだね。
これからも、お母さんの事よろしくね。
そして、兄弟仲良く、楽しいファミリーでいてね。
僕が心置きなく旅立てるのは素適なファミリーをこの世に残せたからなんだよ。

ありがとう皆、こんな素適なファミリーの中の一人であった僕は幸せ者です。
人の思い遣りというものが、どんなに温かいもので、どんなに素晴らしいものか、僕は知る事が出来ました。
優しさを照れずに素直に表わす事に不得手な人の世で、僕と知り合えた人達は皆素直になってくれました。
僕がこの世に送り出された意味は、そんな所にあったのかも知れません。
人の心って本当に温かい、優しい、素晴らしい物なのですね。
もう思い残す事はありません、僕はしっかりあの世へ旅立ちます。
そして、これからはお父さんのパソコンの中だけで駆け回る事にします。