8    ヘマタイト(生命力)
2月3日今日は節分である。
夜になって毎年お兄ちゃんとやっていた豆まきを、今年から新居を構えたお兄ちゃんに代わりお母さんとする事になったお父さんは、どっちが「鬼はー外、福はー内」の掛け声を出すかで少し揉めながら、交替でやっていた。
家中の窓と出口を一つづつ開けては『鬼はー外」、閉じては「福はー内」と、豆蒔きをする。
そして、年の数だけ豆を食べるのだが、ここ何年かは食べなきゃならない豆の量に少しへきへきしている二人ではある。
それから、同じ数だけの豆をティッシュに包み、それで身体の具合の悪い所を摩り、終わるとその豆の包みを頭の後ろへポイッと投げるのである。
これは、京都地方の風習らしいのだが、僕も毎年参加している。
今年は、お母さんが豆を17個ティッシュに包み、「はいっ、リキ、今年は摩る所がいっぱいあるねえ」と、その包みで身体中を摩り、僕の身体を支えて立たせ後ろへポイッと投げてくれた。
悪い所を豆に吸い取ってもらうと言う意味があるらしい。
終わった豆の包みをお父さんが拾い集め、神棚に納めに行き、一年の家族の健康をお祈りするのである。
今年は特に僕の身体の事をお祈りしてくれていた様だ。

昨日の夜中もお父さんお母さん2人共、交替で起こしてしまった。
僕の夜鳴きのせいである。
去年の秋頃の急な衰えは、年を越せるかなとまで心配されたが、まだまだ命の輝きだけはしっかりと持ち続けている。
ここのところ、夜の12時を過ぎる頃には、お母さんが「又、どうせ夜中に起こされるんだから、先に寝るね」と、僕をお父さんに頼んで先に床に就く。
頼まれたお父さんは、昼間寝過ぎるせいか、夜になると中々寝付けない僕を、添い寝までして寝かしつけてくれる。
去年の暮れには、足もすっかり衰え、何よりも好きだった朝晩のお散歩も、裏のマンションのフェンス沿いに、ヨタヨタと寄りかかりながら40メートル程歩いての往復がやっととなっていた。
お父さんは、そんなそろーりそろーりの夜のお散歩の時、ふっと53歳と早死にだった自分の父親を思い出したりしていた。
自分の父親も、こんな風に老いるまで生きていてくれてればなあと。

今はもうリードも必要なくなって、付き添ってくれるお父さんかお母さんが、道路側に僕がよろけない様にガードしながら、側溝の小さな穴に足を落とさない様にと、足先で蓋をしながら横歩きでのお散歩である。
よろけながら後ろ足を少し屈めてオシッコをするだけで「よかったね、おおう、出た出た」と、安心してもらえるのである。
ご近所の70過ぎぐらいのお爺さんには、「おうっ、頑張ってるねえ」と、僕の姿を見て自分の身を奮い立たせる様な言葉を投げ掛けられる。
お爺さんに「人で言うと100歳近いかねえ」と、聞かれたお母さんが、
「そうねえ、90は超えてるでしょうねえ」と、僕への労わりの気持ちを精一杯込めて答える。
「ほうっ、そう、頑張ってね」と、お爺さんはスニーカー姿でさっそうと立ち去る。
お母さんもお父さんも、こんなにヨボヨボになってしまった僕を、むしろ誇らしげに外へ連れ出してくれる。
ここまで一緒に暮せた事への感謝と喜びが、そうさせているようだ。
1日中部屋の中で、殆ど寝たきりの僕にとっても、外の空気は寒さを感じる以上にスッキリするものである。
それでも、足が痛くて立ち竦んでしまうと「もう疲れちゃったかな、足が痛いかな、じゃ、帰ろっ」と、抱き上げて連れ帰ってもらう。
今の僕には充分な精一杯のお散歩である。

僕が生まれて間もない頃、この家に来た時は、おもらしした時用の古新聞紙が敷き詰められたリビングに、今は荷造り用のクッション材が何重にも敷き詰められ、角には1メートル四方程のスポンジ入りマットが敷かれている。
回りの家財道具は床から50センチ程段ボールでガードされている。
僕がよろけてぶつかり怪我をしてしまうのを防御する為である。
まだなんとか一人で立ち上がる事が出来た時、誰も傍にいないと、ゆっくり座って横になるだけの脚力が無く、ドターンと所かまわずひっくり返ってしまうのだ。
特に弱っている左側を下に倒れると、必死にもがき、ぶつけて怪我をした個所を更にぶつけて、血だらけになってしまう事がある。
買い物から帰って来て、そんな僕を見つけたお母さんを、びっくりさせ、悲しがらせた事もしばしばあった。
ここのところは、お母さんが出かける時に、又怪我でもしないかと言う心配はあまりしなくて良くなった。
只それも、更に足の力が無くなり、僕一人では起き上がる事が出来なくなってしまった為で、喜べる事だけでは無いのである。
夜中の夜鳴きもそのせいで、寝返りが出来ずに、同じ姿勢を変えたくて、つい唸ったり吠えたりしてしまうのである。
先に起こされてしまったお父さんかお母さんが、リビングに降りて来て、介護してくれるのだ。


僕は以前、2歳半ぐらいの時に一度家族の介護を受けた事がある。
室内犬として育て、子供をとる気が無ければ去勢手術をした方が良いと、獣医さんに進められ、春前に僕は手術を受けた。
手術は問題無く上手く行き、すっかり元気になり、朝晩のお散歩も、家の中の階段も自由に上がり下がり出来ていた。
トイレもお散歩の時にしっかり出来ていて、僕の身体のリズムもすっかりそれになじみ、夜の10時間分と昼間の14時間分を夫々の散歩中に排泄するサイクルは、2、3時間のずれぐらいはしっかり我慢が出来る身体が出来あがっていた。

2ヶ月程経った入梅間近となった時、朝のお散歩で便がゆるいなあとだけ感じていたお母さんが、お昼前に僕が玄関まで降りて、お散歩の時に何時も着けてくれる首輪とリードの前で吠え、何かをせがむので「どうしたの、リキ、又オシッコなの」と、表へ連れだしてくれた。
僕は必死にリードを引っ張り、出て直ぐの道端でいきなり下痢をしたのである。
おもらししそうなのを必死で我慢していた僕は、出る物が出た感じでホッとして、お母さんを見上げた。
お母さんが『おおっ、良かったね』と、言う顔してくれていると思ったら「あらっ、大変、血が混じってるじゃない」と、顔色を変えていた。
「リキ、どうしたの、大丈夫。お医者さんに行かなくちゃね、歩いて行ける」と、本気で心配している様である。
下血の量が相当な物だったのだ。
お母さんは僕を、玄関ドアにリード縛って入り口に座らせ、バケツに水を汲んでその便をドブへ流しホウキで路肩を洗った。
そして、その足で僕を獣医さんへ連れて行ってくれた。

2、3ヶ月前に手術をしてくれた、肝っ玉母さん風な女の獣医先生は、すっかり元気になっていると思い込んでいた僕が担ぎ込まれ「どうしたの?リキちゃん」と、驚いていた。
お母さんが、今来る途中にも、路肩の土の上に少し下血をした事と、今朝からの症状を話した。
先生は、ここ何日間の僕の食事と様子を聞いて「ふーん、パルボかなあ」と、頭を傾げていた。
そして、注射と点滴をうちながら、パルボと言うのはペットの伝染病で、腸の内壁を爛れさせる怖い病気で、体力がなければ死に至る事もある事をお母さんに説明した。
更に、現在この地域ではパルボが発生したと言う保健所からの報告は無いが、感染した可能性も否定出来ない事も付け加えた。
点滴をうたれている間、おとなしくしていた僕に「何時もの元気がないねえ」と、先生も心配そうに話しかけた。
治療を終えた帰り道、家に向う緩やかな上り坂を、何時もなら力強くリードを引っ張り気味に歩く僕が、なんとなく力なく引かれて後から着いて行く様子に、お母さんが
「どうした、リキ、元気ないか。ほらっ、おいで」と、10キロ以上にもなった僕の身体を抱いて連れて帰ってくれた。
リビングに下ろされた僕は、ぐったりと横になった。
何時もなら、後ろ足をたたみ、お腹を下にして少し身体を曲げ、前足に顎を乗せる態勢で昼寝をするのだか、4つの足を力なく横に投げ出し、お腹も横にして身体をベッタリ床に横たえた。
お母さんはその様子になお更心配になり「大丈夫、リキ、」と、居ても立っても居られない様子で、お父さんに電話をしていた。
「出来るだけ早く帰るよ」と、お父さんは言ってくれた様だ。

点滴が効いたのか、少し眠れた僕が新たな人の気配で目を覚ましたのは、夕方になってからであった。
中学生になり、子供からすっかり少年になったお兄ちゃんの、部活を終えての遅い帰宅時間である。
これぐらいの年頃になると、結構家族には素っ気無くなるものらしいが、ウチのお兄ちゃんに限ってそれはなかった。
学校の事、友達の事、部活の事、そして先生の事と何でも、家族の誰にでも話せていた。
お父さんも仕事の事を子供には分からなくていい事とはせずに、色々と話をしていた。
僕と言う存在は、家族の絆を分かり易い物にし、夫々が尊重し合えるものにしている様である。
僕に対する愛情表現を照れる事無く出せる事が、家族の中では素直になることが一番である事を悟らせているのだ。

「どうしたのっ、リキ、大丈夫なの」と、お母さんの報告を聞きながら、お兄ちゃんが本気で心配をし始めた。
お兄ちゃんは何時も、夕飯までの一時を僕との戯れの時間に費やし、疲れた僕がソファーに伏せると,横に座って僕の耳をクリクリしながらテレビを見て、心のリフレッシュを計るのである。
僕がお相手出来ない今日は、お兄ちゃんもつまらなそうだ。
お母さんと二人で、僕の傍でしゃがんで顔を見合わせ「大丈夫かなあ、どうしょうもないの?」と、お母さんに問い詰める。
お母さんは「点滴も打ったし、様子見るしかしょうがないでしょうねえ」と、居ても立っても居られずお父さんに電話をした時より少し落ち着いて見せている。
そこへ、お父さんが帰って来た。
迎えに出たお母さんに「どう、まだ下痢は続いてる?」と、お父さんが聞きながら上がって来た。
ぐったりと横になったままの僕を3人で屈んで見下ろしている。
「先生は薬が効けば下血も収まると思うけど、ダメなら電話して頂戴と言われてきたんだけど、取り敢えず今の所は落ち着いてるみたいねえ」と、お母さんが状況を話した。
「そうそう、それと絶食、今日は水も遣らないでって」と、お母さんが付け加えた。
「ああ、あっ可哀想に、リキ」と、お互い育ち盛りのお兄ちゃんが言った。
3人の真中で横たえた身体は、目にも勢いがないらしく、皆を更に心配させている様である。
眠りから覚めたせいか、又お腹がぐるぐるし始めて、僕は立ち上がろうと首をもたげた。
「どうしたの、リキ、起きるの」と、お父さんが手を添えてくれた。
僕は急き立てられる様に、リビングのドアの方へ向った。
「あらっ、又出るのかな?」と、お母さんが僕の表情を読み取り、ドアを開けてくれた。
「よし、よし、じゃ行ってあげよう」と、お父さんが降りて来て玄関で首輪とリードを着けてくれて、玄関のドアを開けてくれた。
火事場のくそ力と言うのか、勢いのない僕がリードをぐいぐい引っ張り、玄関を出て直ぐの通りの向い側の道端の叢にお父さんを連れ出した。
そこでいきなり何時もの排便の態勢を取る間もなく、激しい下痢と下血をしてしまったのだ。
「おうっ、リキ、我慢してたの、可哀想に、大丈夫か」と、お父さんが僕の顔を抱き寄せてくれた。
後を追う様にティッシュを持って出て来たお母さんが「やっぱり、又出ちゃった、辛かった?」と、心配そうに言った。
「先生に電話しないと駄目かな」と、噴出した下血の痕跡を見てお母さんが言った。
「そうだなあ、ここをこのままにしておいて、先生に見てもらおうよ」と、お父さんが言うと
「そうねえ、じゃ電話してくるわ」と、お母さんが急いで戻った。

少し経って、お兄ちゃんが「先生がすぐ来てくれるって」と、お母さんの電話の結果を知らせに出て来た。
「あっ、そう、そりゃ良かった、じゃもう落ち着いたみたいだから、お兄ちゃん、リキを中へ入れてやって。」と、お父さんは少しホッとした表情で言った。
「わかった、お父さんはどうするの?」と、お兄ちゃんが聞いた。
「ここを、先生に見せてから洗い落とさないといけないから、それまで他の犬が近寄らない様に見張ってるよ」と、伝えた。
お兄ちゃんは「じゃ、リキ、ほら中へ入ろ、おいで」と、リードを受け取り僕を連れて入った。
足を拭いてもらい、首輪を外してもらって、リビングへの階段を後ろから押してもらう様に上がった。
お母さんはソファーの前に古いバスタオルを二つ折りにして敷いていた。
「はいっ、リキ、すっきりしたか、こっちおいで、ここでねんねしなさい」と、僕を招き寄せ寝かせてくれた。
僕は何時もならこんな時間に、「ねんねしなっ」と、言われても寝るわけもなく、食後の運動とばかりに誰かお相手を見つけてジャレ合っているのに、さすがに今日はお母さんに言われるままに、バスタオルの上にグッタリと横になった。

10分程で女先生が来てくれた。
表でお父さんに排便と下血の様子を聞き、その痕跡を確認して来た先生の表情も、少し深刻そうであった。
僕が横たわった前のソファーに座り、少し様子を見ながら、徐に聴診器を取り出し、診察し始めた。
糞便と下血の後処理をし終えたお父さんが上がって来た。
暴れたりいやがることも出来ずに診察を受けている僕を、3人の家族が心配そうに見守ってくれていた。
「ふーん、そうねえ、注射を一本打っておきましょう」と、先生が注射の用意をし始めた。
お母さんが僕の傍らで「大丈夫よ、直ぐ終わるから」と、何時もの注射の時はしっかり押さえ気味に僕を抱くのを、寝たままの僕の体を摩りながら介助してくれた。
お父さんが「どうですか?」と、先生に聞いた。
「そうねえ、心臓その物は今の所しっかりしてそうだから、下血さえ収まってくれればなんとかねえ」と、先生が答えた。
「今夜このまま眠れますかねえ」と、お父さんが聞くと
「一応、安定剤も打っておいたので、大丈夫でしょう。」と、先生が答えた。
「まあっ、リキちゃんはこんなに大事にされているんだから、幸せよ。ねっ、リキちゃん、頑張ってね」と、先生は診察を終え帰って行った。
先生は帰り際に、「良くなるのも、悪くなるのも、今夜が山でしょう」と、言い残して行ったのだ。
会話の一部始終を聞き漏らすまいと、口を開いた人への目配りで一生懸命だったお兄ちゃんが「リキ、頑張るんだよ、いいね、しっかりするんだよ」と、言葉にならない思いを必死に僕に伝えていた。
その日の夕飯は、何時ものおばあちゃんのお迎えの後の遅い時間に、僕が寝静まっている間に家族で簡単に済ませた様である。
おばあちゃんもお風呂に上がってくる時に僕を覗きに来て、「可哀想になあ、しっかりしてや」と、声を掛けて行った。
12時前にお父さんが「オシッコだけしておこうか」と、裏の駐車場へ連れて行ってくれた。
又、下血したらと言う不安を持ちつつ、ゆっくり眠れる様にと連れて行ってくれたのだ。
幸い下血もなく、オシッコだけを済ませて部屋に戻った僕は、又直ぐ力なく横になった。
薬も効いていたのか、直ぐに眠れた。

僕達4つ足動物は、体調が悪いとその体力を出来るだけ温存し、自然治癒出来る様その身を守るのだ。
食べ過ぎだったり、胃にもたれる物を食べてしまったりすると、道端の草の中から排便を促す物を探して食べたり、土を舐めたり、本能が教えてくれる治療を施すのである。
道端に落ちている物を口にする事は絶対許されない僕も、草を探して食べたりすると「あれ、又食べ過ぎかな?」と、家族もその習性をよく理解してくれていて、食事の量等調整してくれる様である。
只困るのは除草剤を蒔く時期である。
道端の匂いを嗅ぎ回る習性のある僕達は、除草剤その物を口にする事は避けられるのだが、鼻の周りにくっつく事があるのだ。
除草剤が顔にくっつくと、顔の相が変ってしまうのだ。
眼の下が弛んだ様になり、口の周りに皺が出来、目が引きつれた感じになり、家族ををびっくりさせてしまうのだ。
元気を失うまでの事はあまり無いが、少し様子が変ってしまうので、お風呂嫌いの僕は、お母さんに顔を入念に拭いてもらうのだ。
今度の具合の悪さは、今までに無いもので、原因も分からず、家族の皆を本当に心配させてしまっている様であった。

家族の思いが僕の体力と生きる力になり、病魔に克つのにはそれ程日数はかからなかった。
お父さんが又寝不足だったのは言うまでも無いが、心配のあまりに生まれた家族の中の素っ気無さも、僕が元気を取り戻すのと反対に薄らぎ、元の暑苦しいまでの家族愛が満ちて来た。
僕は4人の家族夫々に一生懸命伝えた「ありがとう、心配させてごめん、もう大丈夫、僕幸せだよ」と。
そして、今まで以上に皆も分かってくれた、僕の命が輝いている事を。